大好きは、生きているうちに
私のおじいちゃんは、2021年1月に亡くなった。
私たち家族とじいちゃんばあちゃん家はとても近くて、よく一緒に食事をしたり、旅行に行ったり、学校の運動会や部活の応援にも来てくれていた。他のいとこたちは、離れたところに住んでいたから、私たち兄弟はじいちゃん達にとって一番近くにいる孫で、沢山の愛をもらった。
子供のころの夏休みは、遠くに住むいとこたちもばあちゃん家に帰ってきていた。子供の数が10名近く。今考えると、なんのいうことも聞かないモンスターが10人近くいるなんて。お母さんや叔母、じいちゃんばあちゃんは大変だっただろうな。毎日三食ご飯を準備して食べさせて、庭でプールに入り、スイカ割りやBBOもしてくれて、地域の祭りや海、川にもよく連れて行ってくれた。夜だって大変。お風呂に入るのだってスムーズにいくわけないし、盛り上がってなかなか寝なかった。私がおじいちゃんを想うときいつも思い出すのが、夏休みの朝の習慣だ。じいちゃんは毎朝散歩していた。夏休みは、私たちもじいちゃんの散歩にジョインしていた。なぜかというと、毎日の散歩コースの途中に、コンビニがある。じいちゃんは毎日そこで、みんな1つずつほしいものを買ってくれた。お菓子だったり、ジュースだったり、アイスだったり。私たちはウキウキしながら朝を待っていた気がする。夏休みの朝、少し涼しくて草のにおいがして、後ろで手を組んだじいちゃんが前を歩いて、みんなでじいちゃんの後ろについて歩いていた。猫じゃらしを持っていたり、枝を杖のようにして歩いたり、まっすぐ歩くことが出来ない私たちを常に見守ってくれていた。
中学生や高校生になって、何回か喧嘩をしたこともあった。じいちゃんに勉強しなさいと言われたときに、私が怒ってしまった。今思うと、私はよほど勉強が嫌いだったんだろうなとしか思わない。じいちゃんと喧嘩できたことを後悔してはないけど。それだけ距離が近かったと思う。
2020年4月から私は大学進学のために地元を離れた。18年間両親、兄弟、両祖父母に守られて賑やかに過ごしていた私の生活を大きく変えるものとなった。ちょうどその時、コロナが始まった。街のことも分からないまま一人暮らしのアパートで新しい家電に囲まれて、誰とも会うこともできずに、オンライン授業をこなす日々。時間がありすぎて、不安だけが大きくなるようなそんな時間もあった。そんな時私はチャリを乗り回していた。地元の海の方が圧倒的にきれいだけど、私は海を見たり、海風を浴びるのが好き。海までチャリを漕いで、コンビニのコーヒーを買って、ぼーっと過ごしていた。そのチャリを買ってくれたのはじいちゃん。「高校卒業祝い」「大学進学祝い」どちらも同じなはずなのに、トータル3~4回くらいご祝儀袋に入れてもらった。『じいちゃんもうもらったよ』と言っても『よかよか』と言ってた。そのお祝い金で良いチャリを買ってもらったんだけど。
じいちゃんに会いたい。5年くらいたった今でも会いたくて泣いてしまう。
じいちゃんが亡くなるまで、身近な人が亡くなった経験がなかった。19歳まで死ぬことの意味を知らなかったわけではないが、じいちゃんの死から身をもって感じた。一番学んだことは『死んだらもう話せない』こと。伝えたいことがたくさんあった。大好きとか、じいちゃんの孫でよかったよとか、チャリを大切に乗るねとか、たくさんの愛情をくれてありがとうとか。じいちゃんの棺の前で何にも伝えられなかったことを後悔して涙が止まらなかった。亡くなった夜、じいちゃんに伝えたいことを手紙に書いて、棺に入れた。読んでくれてるといいな。だから私は、まだ元気にしているばあちゃん2人と、じいちゃん1人、両親や大切な人の誕生日や特別な日には、手紙を郵送している。大好きな人には大好きって今伝えなきゃってことをじいちゃんは教えてくれた。
じいちゃんの孫でよかったよ。大好きだよ。
じいちゃんが行きたかったグランドキャニオン、私がいつか行くから。
じいちゃんが亡くなる数カ月前、自宅に2~3日帰ってきたときのことを忘れない。
病院に入院していた時は、コロナ禍で面会できる人は限られていて、私は久しぶりにじいちゃんに会った。食べれず、喋れず、体を動かすこともできず、やせ細っていたじいちゃん。目の前の事実を受け入れたくなくてなかなかじいちゃんと過ごせなかった。家族のみんなが食事をしているときに、じいちゃんを一人にしたくなくて私はじいちゃんのベットの横に残った。その時に、じいちゃんは動かないはずの手を伸ばして、私の頭をなでてくれた。その時に私はなんて言い訳したのかわからないけど、あふれ出す涙を拭きながらなんか言った。すごくすごく嬉しくて。そのことを思い出すと今でも泣いてしまう。これからもずっとずっとじいちゃんのことが大好き。空からみんなを守ってね。あなたの孫で幸せです。